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ミケーレ・ベヌッツィ チェンバロリサイタル評

2008/07/09

ミケーレ・ベヌッツィ チェンバロリサイタルレビュー by John Erskine

ベヌッツィさんが昨年(2007年)に引き続き、イギリス・ハープシコード協会に招待されてリサイタルを行ったときのコンサート評です。彼の演奏の素晴らしさだけでなく、イギリスのハープシコード界の雰囲気もかいま見えて面白いかと思います
リサイタル自体はすばらしい内容だったようです。きっとうるさがたが多いであろうイギリスのハープシコード協会に、二年続けて招聘されるというところを見ても期待のほどがわかりますね

●ロンドンのヘンデル・ハウス博物館にて2008年6月10日に、イギリス・ハープシコード協会主催で開催されたミケーレ・ベヌッツィさんのリサイタルの評
●下記の二つのホームページで掲載されたものを筆者のジョン・アースキンさん了解の下に拙訳しました
Thomas Tomkins Society wed site: トマス・トムキンズ協会HP
British Harpsichord Society: イギリス・ハープシコード協会HP

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ミケーレ・ベヌッツィのリサイタルは最初の1音からして素晴らしかった、と言ってもけっして誇張ではない。使われたチェンバロはデザインは気品があり作りも良いのだけれど、歌わせることは難しく弾きやすい楽器とは言い難い。しかし、公演の後では聴き手からは「あの楽器がこんなすばらしい音で演奏されたのを聴いたのは初めてだ」とのコメントが聞かれた。もっとも私のように昨年ミケーレの我が国(訳注:イギリス)での公演を聴くというまれにみる幸運にめぐまれたものにとっては、楽しみでこそあれ驚きではなかった。彼の演奏スタイルの特徴は常に最高レベルの美しい音を生み出すところにある。彼の音のすばらしさは単にソステヌートにあるのではない。彼のトリルはニュアンスに富み、タッチとルバートが完璧にコントロールされながらも多様な表現力を持っている

彼は(ほかの誰よりも)フローベルガーに最も相性のよい奏者である。彼はゆったりした動き、とくにトンボーのスタイルを好むようなので、「不平 plainte」と「哀悼歌 lamentation」がプログラムに入っているだけで期待が持てた
オープニングの曲、「不平(パルティータ FbWV630より)」は、まさにそうあるべく物憂い感じだが、決してあいまいに弾かれてはいない。続くクーラントは適度なコントラストをもってリズミカルに演奏され、サラバンドはほとんど即興のように聞こえながらも完璧に整った演奏であり、また適度なコントラストで楽しいドライブ感がありながら、しかも弾きとばされてはいないジーグとつながった

こんなハイレベルのリサイタルの中で「白眉はどの曲」と言わせてもらってよいものならば、ミケーレの演奏するフローベルガーの「フェルディナンド王のための哀悼歌 FbWV633」だろう。一言で言うと、究極の漂う美であり、豊かなアフェッティあふれる演奏であった

一方でラインケンの二つの組曲のうちの第一(ホ短調)組曲のクーラントのようにドライブ感がほしいところでは、対位ははっきりとさせた上でしっかりとしたドライブを聴かせてくれた。ミケーレの演奏の奇跡のひとつは、非常になめらかなレガートと狙い定めたようなアクセントを同時に表現する能力のように思える。サラバンドでは流れとリズムの間で交差するような対話が見られた。ラインケンの第二組曲でも同じようなコントラストが見られた。流れるようなアルマンドには完璧な甘いサウンドという表現が最もあてはまるし、サラバンドではごくシンプルなアルペッジョからなっているモチーフの美しさが、彼の指から紡がれていた。さらにまた、ジーグの鋭さが洒脱に表現されて対比をはっきりと見せる

リッターのヘ短調組曲はあきらかに彼のお好みの曲である。彼のおかげで、フローベルガーとバッハ以前のドイツの作風とをリンクさせる、このほとんど演奏されたことのない曲を聴くことができた。フローベルガースタイルのゆっくりしたアルマンドでは、さらに彼の音作りの素晴らしい才能を誇示してくれる。一音一音が演奏されるというよりも愛撫するようにして唄い上げられた。さらにまた、快活なリズムを強調したクーラントが見事な対比を見せる。サラバンドではまた彼の、「音を空間に放つこと」と「音を保持すること」という相反することを同時に表現するという逆説的な能力をも誇示してくれた。最後のモティーフは、ジーグは全て早く演奏されるべきものではないということの良い証明であった

我が国ではスヴェーリンク~シャイト~シャイデマン一派が演奏されることがほとんど無いのは何故なのだろうか?シャイデマンのハ調のトッカータはこの日のプログラムの中でも特筆すべき選曲だった。この楽しい曲は、ただ元気よく演奏するというのではなく、解釈に意志を込めて表現されるときに感じられる高揚感をもって演奏された。二節目の三連音がレガートで演奏されたのには驚いたが、三節、四節目の主題のアーティキュレーションと対比されると納得がいくものであった

この周到に用意されたリサイタルはバッハで終わった。またバッハ定番のイタリアンコンチェルトや半音階的幻想曲を聴かされるのではなく、おそらバッハのもっとも「知られていない」曲、幻想曲とフーガ BWV944だった。この演奏は、我々が不幸にも昨今聴かされてばかりいるある種の古くさいバッハ解釈へのアンチテーゼであり、バロックというよりもモダニズムを感じさせるものだった。ここで完璧かつ好ましいコントラストで表現されたのは、まさにバッハ自身が語っていたような「唄う」スタイルでありながら完璧な清澄さをともなった演奏であった。フーガがクライマックスに向かって収斂していくとき、湧き起こる存在感と威厳を感じさせるに必要十分なだけの「リーニング」(訳注:もたれかかり?)によってフィナーレに向かって高揚していくのだった

ミケーレ・ベヌッツィの再演を待ちかねるというのは、陳腐な蛇足かもしれない。しかし、とても幸いなことに長く待つ必要はない。聖アン・ルター教会で7月8日に昼のリサイタルが決まっている。(予定プログラム:スカルラッティのソナタ、コスエンダ、セイシャス、アルベロ)

彼は、一言で言うと、最高だ!

(訳責 野村成人)

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